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昭和基地が南極大陸に無い理由とは?

てっきり、そうだと思い込んでいたことが、実はそうじゃなかった。

皆さんもそんな経験をしたことがあると思います。私の場合は「お餅」です。そう、あの丸いお餅です。

私は生まれも育ちも九州です。子供のころから丸いお餅が大好き。年末の餅つきは、近所総出の風物詩でした。

蒸しあげたもち米の塊を、臼(うす)に入れ、ベテランの女性が餅の塊に水をパシッと張り、手を引っ込めた瞬間に、男性が杵(きね)をドーンと餅の上に叩き落す。ひょっとしたら若い方は経験がないかもしれませんが、これが餅つきですね。

ぺったんぺったんを繰り返すうちに、硬めの塊だった餅が、いい感じに柔らかくなっていきます。ちょうどいい感じになったら、近くのテーブルに餅を運びます。そこには多くの女性(おばあちゃんとか、おかあさんたち)がいて、熱々の餅を器用にちぎっては丸めて、次々に「お月さまのような丸いお餅」が箱に並んでいきます。

また、各家庭ごとに、二段重ねか三段重ねのお餅を飾ります。こちらはでかい。一番下のお餅は直径30センチぐらいあったように思います。このように昔は近所の人たちが集まって、協力して大量に丸いお餅を作っていました。これも地域のコミュニケーションだったのでしょう。

さて私も社会人になり、東京で働いていた時のことです。記者クラブ、という、新聞各社の記者が詰めている部屋があります。東京の記者クラブなので、いろんなところの出身者がいます。

ある記者が「そろそろ、実家じゃ餅切りが始まるなあ」と言うのです。

「ん?餅つきじゃなく、餅切り?なんじゃそれは」。私は、その記者に言いました。

すると「いやあ、正月前には餅切り、するでしょ。昔から」

「ふうん。どうやるの?」

その説明はこうです。

「まず、臼と杵で餅をつきます」。うん、そこまでは同じだ。

「で、その柔らかな餅を丸ごとトロ箱に入れますよね」。トロ箱というのは、長方体の木箱です。

……いやいや。入れないでしょ。なんでトロ箱に餅を全部入れるんだよ。

しかし彼は断言します。

「いや、入れるでしょう。で、いい感じになった時に、トロ箱いっぱいに敷き詰めた餅を、縦横に切って小さなお餅のサイズにカットする。これが餅切り。常識でしょ」

「ちょっと待て。それは君の土地の、独自の文化じゃないのか。普通、お餅はみんなで丸めるでしょ。お月さまみたいに丸くするのが、お餅だろう」

すると、周りの記者も集まってきました(その日は、暇だったんですな)

1時間、熱く議論しているうちに、わかってきたのです。

●関西、中国・四国、九州は、丸い餅が常識!

●関東、東北、北陸あたりは、なんと四角い餅が常識!

北海道だけは、両方ありました。これは、全国から人々が移住してきたので、風習が混在したのだと思います。

で、伝統のお餅ですから、お互い「四角が正しい」「いや、丸に決まっている」という対立構図が生まれ、ついには「どっちが、正しいのか、専門家に取材しよう」ということに。暇ですねえ。

で、東大の庶民文化、地域文化に詳しい教授をお呼びして、臨時講義を受けることに。

結論は、こういうことでした。

■餅は、丸いのが正統です(西軍、大喜び)

■四角い餅は、近代化です(東軍、大喜び)

つまり、こういうことなんです。

お餅は、中国から伝わった食文化。

しかし、古代日本では、そこに宗教的な意味を強く持たせた。古代日本と言っても、それは、当時の先進地だった九州から近畿に限られる。肥沃な大地と大きな川がある西日本は、豊かな作物に恵まれ、そこの人口もどんどん増えた。大陸から文化が入ってくるのも早かったし、文明がどんどん進化していった。

丸いお餅は、そもそも、神に供える神聖なものであった。丸い形は、満月の時のお月さまや、丸い形の銅鏡を連想させる神秘的なもの。つまり「円形は尊いもの」だったわけです。

鏡餅が丸いのも、そもそもは神様やご先祖様にお供えするという宗教的な意味があったからです。

また、十五夜お月様の時に、みんなで食べる「月見団子」も丸いですよね。ちなみに、この時のお月さまは満月で、まん丸です。この月のことを「望月」といいます。「ぼうげつ」と読みますが「もちづき」とも読みます。ほら、「もち」でしょ?

だから、宗教など文化レベルが高かった西日本地域のお餅は丸い。

しかし、お餅を丸く、ほぼ同じ大きさにそろえるには、人手がいる。マンパワーですね。西日本地域は人口が多いので、この点はクリアできたわけです。

また、お餅を丸めるには時間がかかるので、全体的に平和で豊かな地域であることも条件でした。戦争中だったり、貧しかったりしたら、そんな余裕はないからですね。

一方、その昔の関東、東北エリアは西日本に比べ人口が少ない未開の地。文化の「ぶ」の字もなかった(身もふたもない言い方ですが)。小さな集団がお互い争いばかりしていた。

そこへ、西日本の「お餅」が伝わってくる。これはうまい。しかも保存食になるので戦場に持っていける。しかし、いちいち餅を丸めるには、人手も時間も足りない。

そこで考え出されたのが、丸めないという新発想。お餅をついたら、丸ごとトロ箱に入れる。ちょっと固まり始めたところで、エイヤッと、刀で縦横に切れ目を入れる。例えば、縦に4本、横に5本の切れ目を入れると、あっという間に30個のお餅ができる。早い!

それだけではない。トロ箱に隙間なくお餅が詰め込まれるわけなので、1つのトロ箱にたくさんお餅が入る。これは大量輸送という点で有利。もし丸いお餅を入れて行けば、必ず隙間が生まれ、その分、輸送能率が落ちるわけです。

東大の先生は「東日本のお餅が四角いのは、貧しい、人手が足りない、戦争で忙しいといった実情に合わせたもので、いわば、進化した形と言える」と締めくくりました。

高い文化が生んだ丸い餅。実生活の知恵が生んだ四角い餅。

私など、「餅は丸い」ということに1ミリも疑問を持ったことなく育ちましたが、そういう風に「こうに決まっている」と思い込んでしまうことは、いろいろあるでしょう。

さて、今回も話が飛びまくってしまいましたが、南極に話を戻します。

「南極の日本観測基地」といえば「昭和基地」。これは特に中高年層にとっては常識です。

今回のWBC野球同様、日本中の期待を背負って、南極を目指した観測越冬隊。彼らが南極で1年間を過ごすのが「昭和基地」。だれもが南極大陸に昭和基地があると思っています。だって南極基地なんだから、南極大陸にあるに決まっているでしょう。

そこが大きな落とし穴。実は、「昭和基地」は南極大陸には無い!

うっそー!!!と誰もが思いますよね。でも本当なのです。昭和基地は南極大陸には無い。南極の離れ小島にある。その名もオングル島。「大陸」ではない。本土ではない。島に基地があるんです。前回は、ここまでお伝えしました。

2011年にテレビで放送された、木村拓哉さん主演の南極ドラマのタイトルが「南極大陸」だったので、さらに勘違いの度合いが高まった方もおられるかもしれません。もちろん、観測隊の一部は、南極大陸にも足を踏み入れましたが、基本的には離れ小島の基地で暮らし、その周辺を中心に探査したのです。

「左の青い部分」が南極海で、ここは凍っていないか、若干凍っている。南極観測船というのは、船の先端部分が鋭く、この凍った海をガシガシ割って進むのですが、船の性能によって、どこまで進めるかは異なります。青い部分に小さく「宗谷」(そうや)と書いてありますね。これが日本の南極観測船の名前です。前回書いたように、戦争中に沈没しなかった幸運の船ですが、なにせ古い。改良はしたが、氷を割って進む馬力が弱い。というわけで、ここまで来るのが精いっぱいだったのです。

「右のグレーの部分」が、南極大陸です。ちなみに、南極大陸は、巨大な氷の塊が浮いているわけではありません。約1400万平方キロの面積がある、れっきとした大陸なのです。その98%が氷で覆われているため、なんとなく巨大な氷の塊に思えますが、そうではない。かつては巨大な大陸の一部だったんですが、分裂を繰り返し、約1億6000万年前にアフリカ大陸から分離。さらに1億2500万年前にはインド大陸から離れ、約4000万年前にはオーストラリアが分離し、南極大陸が独立。位置がどんどん南極点方向にずれ、長い年月をかけて「氷の大陸」のようになっていったのです。

じゃあ、この2つの中間に広がる「薄いブルーのエリア」は何か。ここも、本来は南極海なのですが、あまりの寒さで常に凍っているエリアです。分類的には「海」なんだけど、見た目は「巨大な氷の平原」です。厚く、硬く凍っており、調査の結果、犬ぞり隊はもちろん、重い雪上車でも走れることが分かりました。

ただし、当初はわからなかったのですが、この硬い氷原は部分的に動いているのです。これがのちに犬たちを全滅の危機にさらすことになります。

さて、本来であれば、この「氷の平原」を物資の輸送ルートにして、南極大陸に基地を建設したい。それが理想です。だって「南極越冬隊」の基地なんだから、離れ小島なんかじゃなく、大陸にドーンと基地を立てたい。それが人情というものです。しかし、事前の調査で、日本隊が上陸を許されたエリアには、雪上車が上陸できる場所がなかった。どこまで行っても高い氷の壁が立ちはだかる。雪上車が行けないとなると、重い資材を運べないから、基地を建設できない。日本隊は南極大陸に基地を作るという理想は捨てなければならない立場にあったのです。

しかし、ラッキーなことに、「宗谷」と南極大陸の間あるオングル島には、上陸可能な地点がありました。

事前調査したところ、「なんとか雪上車も島に上陸できそうだ」という報告もあり、日本隊はこの島に基地を建設する決断をしたのです。本意ではなかったかもしれませんが、基地を作らないと越冬はできない。贅沢は言っておられなかったのです。

そこで、あわててオングル島に上陸し、責任者が「この地を日本の観測基地建設地とする」「昭和基地と命名する」という儀式を行いました。これには理由があります。南極大陸はどの国のものでもありません。まあ、早い者勝ちという側面もありました。だから日本隊としては、とにかく「日本が実効支配するエリア」といったニュアンスを確立するために、基地の場所を正確に定め、基地名を世界に向けて宣言する必要があったのです。

儀式は終わった。さあ、基地建設だ。重い建設資材を運ぶ作業が始まりました。そしてとんでもないことが分かったのです。

「大変です。昭和基地建設予定地に、雪上車で資材を運ぶことができません」

なんということでしょう。当初の調査では雪上車で行けるという判断だったのですが、詳細な調査と、運搬作業が始まる頃には、どうしても雪上車ではいけない場所があることが判明しました。

さあ。どうする家康?ではなく、どうする南極観測隊!

できないものは仕方がない。別ルートを探そう。雪上車が乗り入れることができるルートを。幸い、見つかりました。しかし、そのルートでは、「ここが昭和基地だ」と宣言した場所には行けないことも判明。どうする?ええい、背に腹は代えられません。雪上車が行けるところに基地を作るしかない。

そういう事情で、現在の昭和基地は、「ここが昭和基地だ」と宣言した場所にはないのです。オングル島にあるのは間違いないのですが。そのことを、現代の科学力や、情報力をもって批判することなどできません。むしろ、いろんな制約の中で、知恵を絞り、勇気を出し、解決策を導き出した第1次南極観測隊は立派であったと思います。

1957年1月下旬から始まった、昭和基地建設に向けた資材運搬は順調でした。宗谷から次々に建築資材や研究機器、食料などが下ろされ、昭和基地建設地に向けて運ばれていきます。運搬は雪上車の役目です。

このエリアに到着した直後、周囲の探査に活躍した犬たちは、暇でした。狭い宗谷から、氷の平原に降ろされた犬たちは、のんびりしていました。昭和基地が完成し、犬ぞり探査が始まるまでは、活躍する機会がありません。しばしの休息の日々です。

しかし、運搬作業が始まって、約2週間がたった2月11日、大変なことが起きます。

南極観測船「宗谷」近くの氷上には、膨大な物資が荷下ろしされていました。その時、突然「宗谷」からアナウンスが響き渡りました。

「大変だ。氷が流れているぞ。総員、氷上の物資を確保せよ」

そうです。凍り付いている南極海も、実は動いています。中でも氷の厚さが薄い場所は割れていきます。割れてしまえば、凍っていない南極海のほうに流されていきます。

建築資材が流されてしまっては、基地建設が不可能になります。食料が流されたら越冬が不可能になる。研究施設が流されたら何のために越冬するのか分からなくなる。

しかし、それ以上に重大な危機に見舞われたのが、犬たちだったのです。犬たちは、宗谷の近くの氷上にひと固まりになって休んでいました。

ちょうど、そのエリアの氷が割れそうです。犬係の北村隊員は絶叫しました。

「いかん、犬たちがいる氷が割れる!助けてくれ!」

氷盤が割れてしまったら、もう助けることはできません。犬たちは、氷に乗ったまま、沖合に吹き流され、冷たい海に転落して死んでしまいます。

北村隊員の声に気付いた隊員たちが、19頭の犬たちを次々に安全な場所に移動させます。最後の一頭が移動し終わった直後、氷盤がバキバキと割れ、ゆっくりと沖合に流されていきました。まさに危機一髪。犬たちの命は救われたのです。

この出来事は、越冬隊員たちの心を一つにしました。実は、「昭和基地建設宣言」の際に、越冬隊員たちは、誰一人、この栄えある式典に呼ばれていなかったのです。それは、とにかく急いで宣言をしなければならないという上層部の都合もありました。無理もなかったのですが、やはり隊員の気持ちとしては面白くない。

「どうして、越冬する俺たちが参加できないんだ」といった不満です。

WBC野球でいえば、優勝したのに、監督だけが記者会見に出て、選手たちは出してもらえない。そんな状況だから、そういう気持ちになるのもわかります。

犬たちの救出劇を通して、「そんな過去にこだわっていては、いい仕事はできない」「危機はいくらでもある。信じあい、助け合うことが大切だ」と言う気持ちが、隊員たちの間に生まれてきたのです。犬を失いかねない危機を乗り越えたことが、隊員たちの心を一つにしたのでした。

そういう空気は、犬たちは実に敏感に読み取ります。わがままな犬も従順になり、どこか不安げな表情を見せていた犬も、全幅の信頼を寄せるようになりました。犬たちも、これからの越冬に向けて、一丸となってきたのです。

「昭和基地」が完成し、越冬が本格的に始まったのは1957年2月15日。宗谷は南極を離れ日本に戻り始めました。越冬隊員11名と、犬19頭の「越冬」が始まります。

次回は、昭和基地での犬たちの日々。そして、のちに犬たちの運命に大きくかかわってくる天然冷凍庫事件について。余力があれば、第二の先導犬についても書きたいと思います。

(written by Free Dog)(不定期掲載)

【ミニ解説】 日本の南極第1次越冬隊は多くの犬を南極に連れて行った。しかし1年後、2次越冬隊との交代に失敗。結局15頭を鎖につないだまま南極に置き去りにした。全滅したと思われていたが、1年後、なぜかタロとジロの2頭は生きていた。世界中が驚き、「タロジロの奇跡」と言われている。

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『その犬の名を誰も知らない』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター 嘉悦 洋『その犬の名を誰も知らない』の感想・レビュー一覧です。電子書籍版の無料試し読みあり。ネタバレを含む感想・レビューは、ネタバレフィルターがあるので安心。
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